選挙が近くなると、街でゴミを拾っている政治家さんを見かけることがあります。

駅前で挨拶をする。

街頭演説をする。

ビラを配る。

そして、ゴミを拾う。

さて、ここで少し意地の悪いことを考えてみましょう。

ゴミ拾いは、票拾いになるのでしょうか。

ゴミを一つ拾ったら、一票。

十個拾ったら、十票。

もちろん、そんな単純な話ではありません。

実際、ゴミを拾っているところを何人が見ているのか。その人たちの何人が、その政治家を覚えているのか。そして、その中の何人が、実際に投票するのか。

そう考えると、選挙活動としての「ゴミ拾い」は、ずいぶん効率の悪い活動にも見えます。

一時間ゴミを拾うくらいなら、その一時間で、もっとたくさんの人に政策を伝えた方がいい。

そう考える人がいても、不思議ではありません。

でも。

私は、ゴミ拾いを「票を取るための行為」としてだけ考えるのは、少し違うと思っています。

人間は、見られているところだけで生きているのか

人は、人に見られているところでは、それなりに振る舞います。

笑顔で挨拶する。

困っている人に声をかける。

きちんと頭を下げる。

選挙であれば、それは当然のことです。

有権者に自分を知ってもらわなければなりません。

自分の考えを伝えなければなりません。

けれど、人間というものは、それだけではありません。

誰も見ていないところで、何をするのか。

誰も褒めてくれないところで、何をするのか。

誰にも知られないのに、それをするのか。

私は、そこにその人の本当の姿が出ると思っています。

道端にゴミが落ちている。

誰も見ていない。

拾っても、誰からも「ありがとう」と言われない。

それでも拾う。

それは単に「街をきれいにする」という行為だけではありません。

「これは自分には関係のないものだ」とするのか。

「自分がいる場所のことだ」と考えるのか。

そこには、その人と世界との向き合い方が表れます。

神様は、そういうところを見ているのかもしれない

私は、神様というものを信じています。

ただ、何かにつけて「神様、神様」と言いたいわけではありません。

自分でできることは、自分でやる。

そのうえで、最後は神様にお任せする。

私は、そんな距離感が好きです。

だからこそ思うのですが。

人間には見えないところでも、神様は見ているのではないでしょうか。

誰にも見られていないところでゴミを拾った。

誰にも知られないところで人を助けた。

誰にも評価されないけれど、やるべきことをやった。

そういうものを、神様はちゃんと見ている。

そして、そういう行為には、何らかの「巡り」が生まれるのではないか。

私はそんなふうに考えています。

それが、必ずしも「当選」という形で返ってくるとは限りません。

良い人との縁かもしれない。

思いがけない助けかもしれない。

何かを避けられたことかもしれない。

自分では気づかないところで、人生の流れが少し変わっているのかもしれない。

人間が「これが神様からのご褒美です」と決められるものではありません。

だから、面白いのです。

ところが、「票が欲しいからゴミを拾う」と話が変わる

ここが、今回いちばん大事なところです。

ゴミ拾いをした。

神様が見ていた。

そして、その結果として何かが巡ってきた。

それは、ある意味では自然なことなのかもしれません。

ところが、

「ゴミを拾ったら、票が増えるかもしれない」

「有権者に見てもらえるかもしれない」

「これをSNSに載せれば、好感度が上がるかもしれない」

そう考えてゴミを拾い始めたら、少し話が変わってきます。

なぜなら、それはもう、

神様への行為ではなく、人間への取引

になってしまうからです。

「私はゴミを拾いました」

「だから、あなたは私に一票ください」

そうなった瞬間、ゴミ拾いは善行ではなく、営業活動になります。

もちろん、選挙活動としてゴミ拾いをすること自体が悪いと言っているのではありません。

活動を発信することも必要でしょう。

政治家が何をしているのかを有権者に知ってもらうことも大切です。

ただ、

「何のためにやっているのか」

というところには、やはり違いがある。

神様からすれば、

「おや、それは私に見せるためではなく、人間に見せるためだったのですね」

ということになるのかもしれません。

そう考えると、少し怖い話でもあります。

徳を積んで、それを請求書にしてはいけない

昔から、人知れず善いことをすることを「徳を積む」と言ったりします。

誰にも知られなくてもいい。

誰にも褒められなくてもいい。

それでも、自分が正しいと思うことをする。

それが徳なのだと思います。

ところが、

「これだけ徳を積みました」

「だから、これだけ返してください」

となった瞬間、徳は取引になってしまう。

これは、少し面白いところです。

善いことをしたから、ご褒美がある。

そう信じることはできます。

でも、

ご褒美をもらうために善いことをする。

となったら、それはもう別の話です。

神様からのご褒美を期待することと、神様にご褒美を請求することは違う。

私は、そこには大きな違いがあると思っています。

選挙で本当に「拾う」べきもの

だから、私は「ゴミ拾いは票拾いになるか」という問いに対して、

「なる」

とも、

「ならない」

とも、単純には答えたくありません。

ゴミ拾いをすれば票が増える。

そんな都合のいい法則があるとは思いません。

でも、人間がどんな行為を積み重ねてきたのかは、その人の姿として残っていきます。

街を歩いて、ゴミを拾う。

困っている人の声を拾う。

地域の小さな変化を拾う。

誰にも届いていない声を拾う。

政治家に必要なのは、もしかすると「票を拾う力」よりも、何を拾うべきなのかに気づく力なのかもしれません。

そして、その積み重ねを見た有権者が、

「この人になら、一票を預けてもいい」

と思う。

そこで初めて、票が動く。

票は、道端に落ちているものではありません。

誰かが、自分の意思で預けるものです。

だから私は、

ゴミ拾いは、票拾いではないと思います。

ただし、

誰にも見られていないところで何を拾ってきたのか。

何を大切にしてきたのか。

何を見て見ぬふりをしてきたのか。

そういうものが積み重なった先に、

「この人になら預けてもいい」

という気持ちが生まれることはある。

その結果として票がついてくるのなら、それは「票拾い」ではないのでしょう。

巡ってきたものなのだと思います。

だから、もしゴミを拾うのなら。

票のためではなく、拾いたいから拾えばいい。

写真を撮らなくてもいい。

SNSに載せなくてもいい。

誰にも褒められなくてもいい。

それでも拾う。

その姿を見ているのが人間だけとは限らないのですから。